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  • 執筆者の写真Mayu

秋保育ちの私が見てきた世界


私は、宮城県仙台市の秋保町という小さな温泉街で育ちました。

仙台市はわりと都会だけど、秋保町は仙台市のめっちゃはずれで、

これまで幾度となく、“え、秋保って仙台市なの?笑”といういじりをされてきたのですが、

“秋保で育った”ということは極めて大きな影響を私に与えていて、

その世界観はこれから描くものにも通じていくと感じています。

じゃあ具体的にどんなことが、という話をしたいと思います。



私の通った幼稚園は、小学校の真横にあって、

だからなんとなく、幼小一貫校みたいな感じでした。

小学校の運動会とかに参加することもあったし、なんだかよく小学校に出入りしていた気がします。

そして小学校は今はもう全校生徒が20人くらいになっている、いわゆる過疎地にあります。

私が居た頃は全校60人くらいで、小学校に通う人みんなの顔を知っていたし、

どこから来ているのかも、お父さんお母さんの顔も知っていました。

小学校では縄文時代を習ったときに、校庭に穴を掘って縦穴式住居を作ったり、朝早くから校庭で土器を焼いたり、

色んな事をしました。

木材とかは地域の人たちが提供してくれて、夏休みにお母さんたちがおにぎり作ってきてくれながら汗水たらして作ったのを覚えてます。

でも、冬の大雪であっさり潰れました。笑

ジャガイモやサツマイモの収穫とかも全校児童でやって、家に持って帰ったり、

それが給食に出てきたり。

うさぎとか鶏とか飼ってて、りんごの皮はだいたいウサギにあげるためにとっておいたのが懐かしい。

もちろんその頃も算数とか国語とか音楽とか時間割通りにやってたんだろうけど、

なんか縛られていた感覚は一切残ってなくて、

目の前のことに夢中で小学校に通っていた気がします。

授業中に眠くなるという意味が分からなかったから、中学校に入ってから授業中に寝てる人を見て、

心から珍しいものを発見した気持ちになったのを覚えています。

地域の人もほとんど顔見知りだから、誰かとすれ違って挨拶を交わさないことなんてなかったし、

近所の人が野菜くれたり、お餅くれたり、きゅうりくれたり、そんな感じで、

地域の中の一人として生きていたと思う。

自分のおばあちゃんの他にも、おばあちゃんおじいちゃんみたいに本気で叱ってくれる人も居たし、

自分の家族じゃなくても、大切にされて有難いと、子どもながらに感じたことは何度もあった。

そして大人になってから、

幼馴染で大親友のお家で夕飯を食べながら、親友がちょうど子どもを産んだばかりのとき、

親友ぱぱが、

「もし陣痛きた時うちで全員飲んでても、まぁまゆに連絡すれば大丈夫だな、がはは」

と言ってくれたのが嬉しくて、

こういう関係性ってあったかいなぁと思った。

困った時には、絶対誰かは手を貸してくれる安心感の中に居たというか、

きっとあの頃、例えば突然家族が居なくなって私一人になっても、

泊めてくれる家族は必ず居たと思う。

学校は掛け捨ての保険じゃないという記事を書いたけど、

私はそもそも保険なんてかけなくても良い世の中になったらいいな~なんて思うことがあって、

“困っている人がいたらみんなで助けようよ”

って、人間だれしも思うことが、もっと感じられる社会になればいいと思う。

保険なんてかけなくても、困ったら助けてくれる安心感があって、

失敗しても大丈夫という安心感が社会に溢れていれば、

みんなもっと新しいことにどんどん挑戦できると思う。

言葉にしなくとも、

“失敗したら終わりだ”

“人に迷惑をかけてはいけない”

そういう見えない価値観が蔓延していて、

心が疲弊していくし、既存の枠をこえられる発想が出てこない社会は、いずれ衰退する。

もし私が、失敗を恐れて安定を選んでいたら、今の私は居ないだろう。

そして私の家族が、私の失敗を恐れず、安定を選ばなかったのも私にとって大きい。

落ちるたびに、この世の終わりほどに落ち込み、

何度も受けた採用試験にやっと合格して、泣いて喜んだ私をずっと見てきた家族が、

今度は退職すると言い出した私をいっさい止めなかったことには私も驚いた。



何があっても大丈夫、

何かあったらその時みんなで考えよう。

だからみんな思いっきり生きていい。

そういう“みんな”の在り方を、

新しい“学校”に創りたいと思ってる。






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